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「トルコ・アヤソフィヤ外観」 「アヤソフィヤ内部」
西暦330年ローマ帝国は首都をローマから
コンスタンティノポリス(現イスタンブル)に遷都します。
西暦395年ローマ帝国は東西に分裂し、
西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分かれます。
そして、
西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により急速に弱体化し、
西暦476年に西ローマ帝国は滅亡します
一方、東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて繁栄を続け
西暦550年には西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配
しました。しかし、その後次第に領土は縮小し続け西暦876年
にはバルカン半島(ギリシャ)とアナトリア半島(トルコ)だけを
有する国家になりました。
首都はコンスタンティノポリス(現イスタンブル)でした。
モザイク画「キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻」 「アーチを支える支柱」
アヤソフィヤは元来キリスト教の大聖堂です。
最初の聖堂は西暦360年にコンスタンティヌス2世
によって首都コンスタンティノポリスに建立されました。
404年に主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱で
聖堂が焼失するとテオドシウス2世により
415年に再建されます。
しかし西暦532年1月に首都市民の反乱「ニカの乱」で再び焼失。
皇帝ユスティニアヌス1世は537年12月27日修復再建します。
その後558年5月7日の大地震により
東側のアーチとドームが崩壊しました。
小イシドロスらの専門委員会によりドームが修復補強されます。
モザイク画「聖母子像」 モザイク画「キリスト像」
ユスティニアヌス1世によって再建されたアヤソフィア大聖堂は
コンスタンティノポリス総主教庁の所在地として
正教会第一の格式を誇り、
東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられました。
しかし、
1453年5月29日首都コンスタンティノポリスはオスマン帝国
により占拠されます。
オスマン帝国のメフメト2世は大聖堂を没収し、
イスラム教のモスクへ転用することを宣言しました。
アヤソフィア内部は十字架が取り外されミフラーブが
追加されましたが改修は必要最小限に止められました。
アヤソフィア大聖堂の内部のキリストや聖者の壁画は漆喰で
塗り込められましたが、メフメト2世は壁画を
破壊することをしませんでした。
世界帝国の大きな夢を見るメフメト2世が
異教徒の聖堂に寛大な措置を執ったことが
現代の世界文化遺産としてのアヤソフィアを救ったのです
偶像崇拝を禁じるイスラム教徒のオスマン帝国に。
イスラム教のモスクとして使われながらも
初期の建立当時のキリスト教のモザイク画が
しっかりと残った事が「奇跡の建築遺産」と
言われる所以です。
「中央ドーム」ドームには40個の窓があります 「半ドーム」とイスラム語文字
1453年のコンスタンティノポリス陥落によって東ローマ帝国が
最終的に滅ぶと、新たな支配者であるオスマン帝国は
アヤソフィヤ大聖堂やパントクラトール修道院付属協会や
コーラ修道院などのキリスト教の協会をモスクに転用しました。
この時、モザイク画を漆喰で塗り込めたので、かえって20世紀に
漆喰が剥がされるまで無事に保護される事になりました。
古代ビュザンティオン市(コンスタンティノポリス、イスタンブル)の
跡地にトプカプ宮殿が造営され、
16世紀にはスレイマニエ・モスクが建立され。
17世紀に「ハギヤ・ソフィヤ大聖堂」改め「アヤソフィヤ・モスク」が
それに並ぶようにスルタンアメフト・モスク(ブルーモスク)が
建設されるなどモスクのミナレットと大ドームが林立する
イスタンブルの歴史地区の美しい景観が育まれました。
モザイク画「聖母子像」アップ画像 「中央ドームに40個もの窓が作られたのは奇跡に近い設計」
「アヤソフィヤ」
350年建設、537年再建のキリスト教(ギリシャ正教)の大聖堂。
15世紀からのオスマン帝国時代にはモスクに転用され、
20世紀に無宗教の博物館に変えられました。
再建時以来の直径31メートルの大ドームとモザイク画、
モスク時代に付け加えられた4本のミナレットを始めとする
モスクの装飾が残ります。
アヤソフィヤの読み方

ハギヤ・ソフィヤ(ギリシャ語読み)東ローマ帝国時代の読み

アヤ・ソフィヤ(トルコ語読み)オスマン帝国統治時代の読み
アヤソフィヤ外観 「ミナレット」イスラム教の柱が4本建つ
「巨大な扉」 「突き当たりの「窪み」はミフラーブ。メッカの方向を向いています」
アヤソフィヤ天井「半ドーム」 「聖母子像」のモザイク画も漆喰で塗り込められていました。
2階から見る照明の傘。突き当りはミフラーブ。
平成23年6月1日初稿 平成30年6月20日更新
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